こんにちは。突然椅子から立ち上がろうとしたら、腰に力が入らなかったんです。突然。だから座っているのは大丈夫です。はい。今日はネヘミヤ書の後半を見ていきます。1章から6章まではすべてが完成しましたよね?そうです。だから私たちはこれまで神殿を建設しました。そうですよね?そして神殿を建設したのですが、城壁がないために敵が攻め込んできて、ネヘミヤが神に祈り、城壁を完成させます。しかし、城壁を完成させたらどうなるのでしょうか、皆さん?城壁を完成させたら、その城壁をただ放置しておけばいいのでしょうか?その城壁を守る誰かが必要ですよね?誰が必要ですか?城壁を守る番人が必要です。まさにそれについての話です。
今日の3節の言葉を見てみると、「私は彼らに言った。日が高く昇る前にはエルサレムの門を開いてはならず、まだ見張りをしている時にはすぐに門を閉じ、鍵をかけ、またエルサレムの住民はそれぞれ自分の守る場所で見張りをし、自分の家の向かいを守らせよ」とあります。そうです。ネヘミヤが城壁を築き、そして自分の家の前にいる人々に今や番人になれと語っている部分が今日のメッセージです。皆さん、番人がいなければ守れません。特に私たちの信仰、私たちの家庭、私たち自身、私たちの教会にとって絶対に必要なのは誰かというと、正しい番人です。まさにそれをネヘミヤは正確に理解しており、イスラエルのすべての民に対して、あなたの家の前にあるその城壁の番人になれと語っています。
皆さん、私たちも正しい番人になりたいと思っています。だから神が私たちに任せてくださった教会、家庭、そして私たち自身を守ることができる、そういう私たちになりたいのです。だから今日の説教のタイトルは「正しい番人にならなければならない」ということです。しかし、正しい番人になるためには、まず優先順位の点検が必要です。何を最初にすべきかを知る必要がありますよね?そうです。しかし、ネヘミヤは霊的な番人として何をすべきかを7章で見ると、霊的な番人としての優先順位を見ます。ネヘミヤの優先順位を見ていきます。
まず第一に、礼拝を優先しなければならないということです。ネヘミヤが城壁をすべて完成させた後、7章の1節から最初に何をするかというと、神殿が建設されると扉を取り付け、門番や歌う者、レビ人を立てます。レビ人とは誰ですか?祭司ですよね?そうです。ネヘミヤは礼拝のために祭司を最初に立てることを見ます。しかし、これはこの時だけではありません。城壁を築く時からそうでした。城壁を築く時からネヘミヤが最初に気にかけていたのは礼拝でした。ですから前の部分、ネヘミヤ3章に行くと、その時大祭司エリヤとその兄弟の祭司たちと共に立ち、羊の門を建設したと語っています。やるべきこともたくさんあるのに、ネヘミヤが最初に気にかけたのは羊が出入りする門を作ることでした。なぜなら、神を礼拝するためには、捧げ物が聖なるものでなければならないからです。欠陥があってはいけませんよね。だから人々が行き来できないように、捧げられる羊が通る羊の門を最初に立てたのです。なぜですか?礼拝が優先だったからです。礼拝が優先だったので、常にネヘミヤにとっては優先順位でした。礼拝が優先です。
そして後のネヘミヤの部分でも、常にネヘミヤが気にかけているのは礼拝でした。ですからネヘミヤ13章に行くと、今の後の部分ですね。13章に行くと、その時私は見たのですが、ユダである人が安息日に酒を買い、穀束を運び、ワインやブドウ、さまざまな荷物を持って安息日にエルサレムに入って食べ物を売るために、その日に私は警告しました。安息日に礼拝すべき日に何を売っているのですか。ネヘミヤがそれを止めたのです。なぜですか?礼拝が優先だからです。皆さん、私たちの生活において最高の優先順位は礼拝になっていますか?はい。それとも仕事での成功やビジネスの繁栄、健康、週末の旅行などが皆さんの優先順位になっていないかを振り返ってみてください。
特に英語で見ると、宗教というのは「リリジョン」と言いますよね。リリジョン、そうです。英語で宗教を言いますが、これはラテン語から来ています。「リリジオ」という言葉から来ていて、これは「結びつく」という意味です。結びつく。つまり宗教とは神とその聖徒が結びつくことを意味します。特に何を通して?礼拝を通して。だから私たちが礼拝を捧げると、神と一つに結びつくのです。はい。まさにそれが必要です。なぜなら、詩篇127篇1節には「主が家を建てなければ、建てる者の苦労はむなしく、主が町を守らなければ、番人の目覚めもむなしい」と書かれているからです。そうですよね?だからどんなに番人が頑張っても、一人の力ではできないのです。神が共に番人になってくださらなければなりません。そのためにはどうすればいいのでしょうか?礼拝がなされなければなりません。正しい礼拝がなされるとき、神が共に番人になってくださるのです。なぜなら、礼拝を通して私たちが経験しなければならないのは、神の臨在と神の共にいること、神との結びつきだからです。
はい。だから私たちが点検しなければならないのは、私の礼拝は本当に神と一つに結びついている礼拝なのか?私の礼拝を通して、私たちの礼拝を通して神の臨在が経験され、私たちの礼拝を通して本当に神が共におられて、私が番人を立てているが、結局番人を立ててくださるのは私たちの神であると証言できるような礼拝者になっているのかを考えなければなりません。
特にデイビッド・ピンク、世界的な精神衛生学者がそのように言っています。人には精神的健康のために必要なものが4つあるそうです。精神的健康のために必要な4つですが、第一は何かというと、働かなければならないそうです。はい。だから一攫千金の宝くじに当たった人たちが精神的に多く苦しんでいる理由は、働かないからだそうです。だから精神的に健康であろうと思ったら、働かなければならないのです。第二は休まなければならないそうです。健康であろうと思ったら、休まなければなりません。休まなければなりません。そして第三は愛さなければならないそうです。愛する人と共に生活することで心が安定するのだと語っています。そして第四は礼拝を捧げなければならないと言っています。この4つが私たちの精神的健康に絶対に必要だと語っています。働くこと、休むこと、愛すること、礼拝すること。しかしこの方が知らないことが一つあります。それはこの4つはすでに何に属しているのかというと、私たちの礼拝に属している部分なのです。私たちの働きも世の中で働くすべてのことも私たちの礼拝に属します。休むこと、安息日を守ることですよね。休むことも私たちの礼拝に属しています。そして愛することも礼拝に属しているのは確かです。そして礼拝。だからこの4つはすでに私たちの礼拝に属しています。それが使徒パウロが私たちの生活に望んでいることです。使徒パウロが。ですからローマ人への手紙12章1節には「それでは兄弟たちよ、私は神のすべての慈しみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの体を神が喜ばれる聖なる生け贄として捧げなさい。これはあなたがたが捧げる霊的礼拝です」と語っています。この4つが私たちの生活全体が礼拝になるとき、それが私たちが捧げる霊的礼拝になるということです。
しかし重要なのは、私たちの生活全体が礼拝になるためには、私たちが聖なる生け贄として捧げなければならないということです。私たちの生活全体が聖なる生け贄でなければなりません。それが今日の第二のポイントにつながりますが、正しい番人は第二に神を畏れることを優先しなければならないということです。ネヘミヤは人を立てるとき、人物や実力、学歴を見て立てませんでした。今日の2節には「私の兄弟、神の門に関するハナニヤが共にエルサレムを治めることになったが、ハナニヤは忠実な人であり、神を畏れることが群れの中で優れている者だ」と書かれています。皆さん、神を畏れることが群れの中で優れている。畏れます。神を畏れるということは、聖なる生活を送る人だということです。聖なる生け贄になる生活全体が聖なる生け贄になる生活を送る人だったということです。まさに神はこれを私たちに望んでいます。私たちの生活が神を畏れ、聖なる生活を送っているのか、だからネヘミヤは引き続きネヘミヤ書を読むとこのことを強調しています。10章30節には「私たちの娘たちをこの地の民に与えてはならない。私たちの息子たちのために彼らの娘たちを連れてきてはならない。なぜなら、偶像崇拝によって神の聖さが損なわれるからです。」だから常にネヘミヤは神を畏れること、聖なる生活、結婚を正しくすることを強調しているのです。
ですから後にはネヘミヤがここまでします。その聖さのために13章25節には「私は彼らを叱責し、呪い、彼らの中の何人かを打ちました。」なぜですか?異邦人と結婚したからです。結婚式場に行って騒ぎを起こしたのです。打ったのです。この人はすごいですね。そうですよね?牧師でなくてよかったです。酒を任された役人です。まだこの人は牧師ではありません。牧師ならそういうことはしてはいけませんが、この人は役人だから打つのです。しかしそれで終わらず、何をしますか?行って髪の毛を引き抜いてしまいます。これが韓国の人々が娘たちが出て行けないように、ハサミを持ってきて、何かこういうことがここから来たのではないかと思うほどです。なぜですか?神を畏れること、聖さは番人にとって何よりも重要だからです。皆さん、番人がしっかり守らなければ、賄賂を受け取って開けてはいけませんよね?そうです。聖さを守ることは何よりも重要です。私たちは聖さを守っているかどうかを考えなければなりません。
私たち中国、日本、韓国の人々は皆箸を使います。そうですよね?しかし不思議なことに、昔の韓国の人々は銀の箸を使っていました。お金があれば銀の箸を使いましたよね。なぜですか?食べ物に毒があるかどうかを最初に確認できるからです。それが私たちの霊的レベルでなければなりません。私たちは常に目を覚まして、何かを食べたり飲んだりする前に、どのような生活を送る前に、これが私の霊的な毒になるかならないかを事前に知って生きる、そういう姿が正しい番人の姿になるということです。
第三に、番人の優先順位は献身と忠誠を優先しなければならないということです。皆さん、番人です。皆さんが一度想像してみてください。城で番人として立っているのに、番人が来るべき時間に来ない。だからその番人が怠けます。その城は安全でしょうか?いいえ。正しい献身が必要です。そして忠誠が必要です。忠誠が必要だということは、常に欠けることなく、毎瞬その場所を守る忠誠があるとき、その人が正しい番人です。献身と忠誠がなければ、時々抜けたりするなら、その人をどう信じてその城をどう信じることができるでしょうか?そうではありませんか?正しい番人は献身と忠誠がなければならないということです。
皆さん、私たちも同じです。私たちが神の教会を守る番人、家庭を守る番人、私たち自身を守る番人になるためには、私たちは教会に仕えていなければなりません。献身していなければなりません。そして忠誠を持っていなければなりませんよね?そうです。しかしその当時、エルサレムの民は本当に献身した人々でした。なぜならネヘミヤ書7章3節から見ると、「私は彼らに言った。日が高く昇る前にはエルサレムの城を開いてはならず、まだ見張りをしている時にはすぐに門を閉じ、鍵をかけ、またエルサレムの住民はそれぞれ自分の守る場所で見張りをし、自分の家の向かいを守らせよ」と言ったのですが、その後が面白いです。自分の家の前を守らなければならないのに、その城は広大で住民は少なく、まだ建設できていなかったのです。まだ家もあまり建てていないのに、番人を最初にするのです。まだ自分の家も完成していないのに、彼らはまず城を守るために献身する姿を私たちは見ることができます。彼らは神の教会への献身が優先だったのです。優先だったのです。ある面では、まさにこれが私たちが見習うべき部分だということです。
そして彼らは自分の家も完成していないのに、持ってきて捧げます。70節には、ある族長たちは歴史のために補助し、総督もお金を出します。知事も金千ドラッカマと大豆と祭司の分530回を穀倉に捧げます。またある族長は金二万ドラッカマと銀二千二百マネを歴史の穀倉に捧げ、残りの民、二万ドラッカマと金二千の祭司の衣服67回を捧げます。高い人々から民まで、皆自分の家も建てられていないのに、彼らの献身の姿を私たちは見ることができます。しかしなぜ彼らはここまでしたのでしょうか?感謝しているからです。感謝しているのです。なぜなら神の神殿であるエルサレムに私たちを神が導いてくださったからです。それだけです。見てみると、家もありません。安全でもありません。やるべきことは山のようにあります。しかし神の民にしてくださったそれだけで、彼らは感謝しているのです。
皆さん、私たちも同じです。なぜ私たちは献身と忠誠を優先にして生きなければならないのでしょうか?その理由は、私を救ってくださった十字架の恵みのためです。私を救ってくださった十字架の恵みのために、私たち全員が主の体である教会を建てる番人の役割を果たす私たちになりたいのです。しかし教会をこのように研究する人々を見ると、ほとんどの教会では献身する人は5%もいないそうです。5%もいないそうです。私たちの教会はどうでしょうか。隠れた集まりに参加することを献身と考えるなら、ものすごいことですが、問題は終わった後に片付けることなど、そういう献身はまたしませんよね。とにかく、私たちが主の体である教会を建てるために献身しているかどうかを振り返ってみてください。まさにその献身する人に求められるのは、コリント人への手紙4章2節に「そして、任された者に求められるのは忠誠です」と書かれています。忠誠です。
ですからネヘミヤが人を立てるときもこれを見たのです。ですからネヘミヤ7章2節には「私の兄弟、神の門に関するハナニヤが共にエルサレムを治めることになったが、ハナニヤは忠実な人であった」と書かれています。そうです。先ほどは他の人が神を畏れる人であり、ここでは忠誠であったというのです。忠誠。忠誠というのは他のことではありません。自分の場所を守ることです。そしてその場所を守りながら、自分がやるべきことを忠実に行うことです。他の人の仕事を持ち出して、あれこれ言うのではなく、自分の仕事においてその場所を守り、忠誠を尽くすこと、まさに主の体である教会はその番人が教会を建てるのです。教会を建てます。
忠誠。教会は特別という言葉を前に使うのが好きです。特別な早朝祈祷、こういうのがありますよね。なぜでしょうか?そうしないと来ないからです。特別にしなければ来るのです。特別が好きな人は忠誠から遠い人です。はい。特別な早朝祈祷に来るのではなく、その時も来ますが、なぜ特別にしなくても来るような人が忠誠な人だということを覚えておかなければなりません。はい。そして何よりも職分を担った者は忠誠でなければなりません。その当時、その人々は忠誠だったようです。はい。エルサレムの城はがらんとしていました。しかし1節にはネヘミヤ書11章1節に「民の指導者たちはエルサレムに住んでいました」と書かれています。住んでいたのです。指導者という職分のために、彼らは忠誠を尽くしました。
私たちの教会の職分者たちを見ていると、本当に教会に熱心に奉仕しているように見えます。とても良いように見えます。感謝しています。私が病気になってから一番羨ましいのは、歩き回って教会にいる人々が一番羨ましいです。教会に通いながら歩き回っているその方が本当に羨ましいです。ああ、私もできるかもしれない。はい。しかし教会の指導者とは誰でしょうか?皆さんが考えるその基準の指導者は誰ですか?長老ですか?長老までですか?それとも執事や権士ですか?いいえ、私たちの主の目には私たち全員が指導者です。王のような祭司ですから、私たちはその場所を守らなければなりません。忠誠を持って。しかしこれは簡単ではありません。昔も簡単ではなかったようです。ですから人々は2節に「エルサレムに住むことを自発的に望むすべての者のために、民は祝福を祈った」と言っています。はい。誰も強制されていないのに自発的にすること、これが最も貴重なことです。自発的にするからこそ、それが貴重で、それを見る人々が祝福を祈るのです。とても貴いです。
しかし問題は、自発的な人々が不足していたことです。はい。人が多すぎて、足りなかったのです。だから仕方なく、1節の上の部分に戻ってみると、どうしたのかというと、「民の指導者たちはエルサレムに住んでおり、残りの者はくじ引きで住むことになった」と言っています。だから自発的な人々は祝福を受けて、祝福を祈られていますが、今できないのでくじ引きされた人々は気分が悪かったでしょう。ああ、自発的にするべきだった。せっかく自発的にするべきだった。私は皆さんがそれが何かを知ってほしいと思います。自発的であることが祝福です。自発的でなければなりません。はい。自発的でなくて、無理やり埋められるような献身ではなく、自発的な献身者が私たちの教会に満ちることを願います。
皆さん、信仰生活で最も愚かな姿は、負担なく信仰生活をしようとすることです。負担なく。はい。信仰生活は負担がないわけにはいきません。なぜならサタンが常に攻撃するからです。そのため、楽に奉仕する。もっと楽に献身する。忠誠という言葉を使うのがもったいないでしょう。そうですよね?はい。門番として、番人として、私たちが献身と忠誠を優先しているかどうかを振り返ってみてください。
第二に、正しい番人は新しいビジョンを持たなければなりません。ということです。今日の7章4節には、その城はエルサレムの城であり、すべてを終えた後、非常に大きく、広大です。しかし住民は少なく、まだ建設できていませんでした。その中でこんな不満を言う人もいたでしょう。わざわざ大きな城を建てて、城壁はなぜこんなに大きくしたのか?人もいないのに、ちょうど適切にだけすればいいのに。こんな不満を言う人が多かったでしょう。しかしそれは神が望んでいることではありません。そうですよね?皆さんが番人になって、その広い城を夜に一人で番人になって、その城を見たら、正しい番人は祈りが出てくるべきです。神様、大きな城を許してくださり、感謝します。神様、今、満たしてください。神様、この城を通して何をしたいのですか?大きくしてください。復興させてください。この城を使ってください。というこのような祈りが出てくるのが当然の正しい番人です。こんな大きなものを私に任せて、面倒くさい思いをさせるのか?これは正しい番人ではありません。はい。
同じように、私たちも教会を、家庭を、私たち自身を守る番人ですが、神が私たちに豊かに何かを与えてくださったなら、私たちはそれを持って夢を見なければなりません。ビジョンを持たなければなりません。ビジョンを持たなければなりません。ですからそのビジョンと神のビジョンが一致することによって、それを成し遂げてくださる神によって喜びが溢れる、そういう番人になりたいのです。そしてそうなるためには、第三に祈る人にならなければなりません。祈る番人は祈る人が正しい番人です。
皆さん、ネヘミヤを見てみると、祈りから始まったのがこうなったのです。ネヘミヤ一人の祈りで全てが始まったのです。何かというと、王に仕えていたときに、ある人が来て、私たちの民がエルサレムで城壁がなくて苦しんでいるという話を聞いて、ネヘミヤが一人で祈り始めたのです。しかしこの一人の祈りがこの一人の祈りが、ものすごい歴史を生んだのです。一人の祈り。この一人の祈りが集まって、ものすごい歴史を成し遂げるのを見ることができます。世界を変えるエルサレムを変えるエルサレムのイスラエルの民を変えるその祈りに繋がるのを見ることができます。皆さん一人一人の祈りがどれほど貴重か分かりません。私はこのように説教する者として、感謝していることの一つは、皆さんが私たちの中で礼拝のために祈っている方々を見ると感謝しています。はい。皆さんの祈りのおかげで、私はこのように説教できるのだという思いがあるので、感謝しています。一人の祈り。
しかしネヘミヤの祈りには少し特異な点があります。ネヘミヤ書に出てくる祈りは、その方について少し見てみたいのですが、ネヘミヤを見ると、その日、20日間にイスラエルの子孫が皆集まり、断食し、赤い衣を着て、塵をかぶり、すべての異邦人と絶交し、自分の罪と先祖の過ちを告白し、その日、私4分はその場に立ち、その告白をしました。2節まで見ると、彼らは今集まって告白します。悔い改めます。悔い改めの祈りをしているのです。彼らはそうです。集まっているのですが、面白いのは、すでに悔い改めているのに3節が面白いです。すでに悔い改めているのに、その日、彼らはその場に立ち、あなたの神、主の律法の書を横で朗読します。あれだけ今悔い改めているのに、1分は律法の書を朗読します。これは何を意味するのでしょうか?悔い改めているのに、さらに悔い改める題材を与えるのです。ずっと通常は悔い改めたら、何か許された、何かこうなるという風に出てくるべきですが、しかしネヘミヤの祈りの特徴は何かというと、ネヘミヤ書に出てくる祈りの特徴は、変わるまで悔い改めたいという祈りだったのです。
通常私たちは祈りで何を最も重要視するかというと、応答を最も重要視しますよね?そうです。応答を最も重要視します。しかしスウェス・リスもそう言いましたが、祈りの応答が私に必要なのではなく、私が神が望む姿に変わることを望む祈りなのです。私が変わること、まさにそれがネヘミヤでの祈りの特徴です。ですからずっと言葉を与えている理由は何かというと、変化ということです。悔い改めで終わるのではなく、変化しなさい。変化しなさい。そうです。まさに私たちの祈りもそうでなければなりません。私たちの祈りも、これからは応答も重要ですが、私が祈りを通して神がどのように変わることを望んでいるのかという、そういう悔い改めの祈りに繋がるその姿が私たちに必要だということです。
ある教会の新しい婦人部の会長が牧師に尋ねました。牧師様、どうすればこの仕事をうまくできるでしょうか?と尋ねました。普通牧師は、祈りなさいと言って、婦人部のために祈ってあげます。こういう風に祈りますよね。しかしこの牧師は少し特異なことを言いました。その方に何と言ったかというと、祈るとき、神の前に祈るとき、私について、私をもっと正確に見ることができるように神に祈ってくださいと話したのです。ある面では婦人部の会長が悪かったかもしれません。なぜなら、ああ、あなた自身をもっと知りなさい、こういうことかもしれません。しかしこの方はそのように祈ったのです。神様、私を正しく見えるようにしてください。神様、私について見えるようにしてくださいとこの方は祈ったのです。しかしこの方がこのように祈れば祈るほど、この方が経験するのはまさにそれだったそうです。ああ、婦人部の会員たちが働かないのではなく、私のせいだったのだ。私が問題だったのだ。私が変わるのだ。はい。私の奉仕が問題だったのだ。私の言葉が問題だったのだ。そうしながら悔い改めが自然に出てくるのだそうです。悔い改めが。
その神が私を見させてくださり、私がどれほど不足した存在であるかを見させてくださり、悔い改めが出てくるのです。しかし悔い改めれば悔い改めるほど、悔い改めれば悔い改めるほど、婦人部が変わっていくのです。悔い改めれば悔い改めるほど、私が変わるのですが、逆に一緒に変わっていくのを見るのです。皆さん、それが私たちの祈りであることを願います。聖霊様を通して祈りを通して私を見えるように願います。だから私たちがどれほど不足した存在であるか、まさにそれが、だから私たちがどのように変わらなければならないのか、それを見えることができる私たちに祈りであることを願います。
皆さん、ヤコブがヤボク川で天使と格闘しましたよね?そうです。とてもよく知っていますよね。しかし神がヤコブの股関節を打って、ヤコブが足を引きずるようになりました。だからヤコブは祈って、結論が何だったのかというと、足を引きずるようになったのです。ヤコブは足を引きずるようになりたいと思って祈ったことは一度もありません。夢にも考えたことがありません。ヤコブが祈った理由は、自分の兄エサウが変わって、自分を殺さずに助けてくれることを望んでいたのですが、神がヤコブに応答されたのは、彼を足を引きずる者にしてしまったのです。どう見ても恨むこともできるかもしれません。そうではありませんか?しかし神が望んでいたのはそれだったのです。その祈りを通して神が望んでいたのは、ヤコブが変わることだったのです。ヤコブが自分の力だけに頼っていたそのヤコブが、今度は神だけに頼って生きるようにさせられたのです。神だけに頼って生きるように。これがヤコブの祈りだったのです。
はい。皆さん、私たちも同じです。皆さん、なぜ私たちは祈るのでしょうか?応答を受けるためです。自分がうまくいくために、もちろんそう祈ることは重要です。重要です。しかし私がこの祈りを通して、神が私にこう変わるように、こう悔い改めるように、だから私がまず変わるように、私がまず自分を見て、神の目で見なさいと見ながら変わるように言われている部分はないかを振り返ること、まさにそれが私たちの祈りに必要な部分だと言えるでしょう。ある部分では、ある人は悔い改めなさいと言われると、悔い改めなさいと言われると、罪を発見することだけを悔い改めだと思っているようです。いいえ。それは悔い改めではありません。もっと進まなければなりません。
誰を考えてみることができるでしょうか。イスカリオテのユダと徴税人を考えてみることができます。イスカリオテのユダと徴税人は二人とも罪人でした。そうです。イスカリオテのユダと徴税人は二人とも罪人です。しかし結果は全く異なります。なぜですか?イスカリオテのユダは自分の罪を発見することだけを悔い改めだと思っていました。しかし他の人に出たくはありませんでした。プライドが邪魔をしたのです。ある面では他の人にその姿を見せたくなかったでしょう。だから彼が選んだ悔い改めの方法は自殺でした。誰にも知られずに死ぬこと。誰にも知られないことが難しいと思ったでしょう、彼は。しかしそれは悔い改めではありません。悔い改めではありません。主が望んでいる姿は徴税人でした。徴税人はどうしますか?主に出会います。そして悔い改めます。そして自分が奪った財産やすべてのものを自分が分け与えます。人々に公然と自分がどれほど罪人であるかを示すのです。私が不足していた。私が間違っていた。だから私が代わりにこれを返すのだ。だから彼の生活にその姿が現れるのです。それが徴税人の悔い改めでした。
皆さん、私たちの悔い改めはどうですか?ただ罪を発見した。それで悔い改めがすべて終わったと思いますか?いいえ。それは悔い改めではありません。私が変わって、変わった姿で他の人を仕えること、他の人を立てることまで繋がるとき、それが正しい悔い改めの姿になるということです。そうです。イスラエルの民もその当時、そうでした。彼らの悔い改めは正しい悔い改めでした。正しい悔い改めをした結果、何が起こるかというと、イスラエルの民が悔い改めることで最終的に神の愛を経験するのです。悔い改めながら愛を経験するのです。今日の31節には「主の大きな憐れみによって彼らを完全に滅ぼさず、見捨てることもなさらなかった。あなたは恵み深く、憐れみ深い神です」と書かれています。これは何かというと、悔い改めるのに底なしに続けて悔い改めが出てくるのです。先祖から自分たちまで底なしに悔い改めます。悔い改めていくうちに何を感じるかというと、私たちは裁かれるに値する。私たちは本当に打たれるに値する、死ぬに値するということを感じるのです。しかし見てみると、私たちはまだ生きています。私たちの民族がまだ残っています。それを見て、ああ、主の憐れみなのだ。私たちを憐れんでくださっているのだ。その31節の告白がその愛を経験するのです。悔い改めを通して。はい。愛を経験するのです。
しかし愛を経験することが終わるのではなく、最終的に彼らは38節にこのようなことを体験します。「それでは私たちはこのすべてのことにより、今、厳粛な契約を結び、記録し、私たちの首長たちとレビ人、祭司たちが皆印を押します」と言いました。印を押したのです。聖霊の印が押されたのです。これは何を意味するのでしょうか?彼らは私の民だと印を押してくださるのです。彼らの悔い改めを通して。彼らが祈りを通して。はい。そしてこの印を押すということは、誰も今や壊すことができないのです。神がサインしました。終わりです。神がサインしたのです。はい。まるでエペソ人への手紙1章13節に「その中であなたがたも真理の言葉、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、その中でまた信じて、約束の聖霊によって印を押されました」と語っているのと同じです。聖霊の印を通して、私たちは永遠の神の子供になったのです。しかし子供だけでなく、私たちは何になるのでしょうか?聖霊の助けの中で生きざるを得ない存在になったのです。
イスラエルの民も同じです。この印を通してどんなことが起こるかというと、彼らはまず性的な純潔を守ることを決意します。しかし皆さん、これが私たちが比較してみるべきことは、先ほど私たちの番人の優先順位でしたよね。優先順位。第二は何かというと、神を畏れ、聖なる生活を送ることですよね。彼らは聖霊の印を通して、今や聖霊の助けを受けて聖なる生活を送ることになったのです。そして生きることを決意したのです。だから番人の優先順位が正しく聖霊の助けによって今や正しく実現されることになったのです。祈りを通して。そうです。そしてこの第二は、安息日を徹底的に守ることを彼らは決意します。この第二も、先ほどの優先順位に入りますよね。礼拝が優先順位でしたよね。礼拝が優先順位、まさにここにあるのです。
そして第三は献身と忠誠でしたよね。献身と忠誠。この聖霊の印を通して、彼らは第三に神のものを区別して捧げることを決意します。しかしこれが献身と忠誠と何の関係があるのかというと、32節には「私たちはまた自分たちで規則を定め、毎年各自の収入の3分の1を納めて、神の神殿のために使うことにします」と書かれています。これは十分の一以外に神に捧げたのです。物質を。なぜですか?教会が回らないからです。その当時、教会にお金がなかったので、祭司や誰も何を食べるものを与えることができませんでした。だから奉仕することができないのです。献身と忠誠をすることができないので、信徒たちが献身と忠誠のために捧げたのです。物質を十分の一以外にももっと捧げたのです。まさにそれを語っているのです。それも先ほどの優先順位に入りますよね。そうです。献身と忠誠。まさに私たちを振り返り、悔い改め、私たち自身を発見し、神の前に出るとき、神の愛を祈りながら出るだけでなく、神の愛を体験するだけでなく、聖霊の印を通して、今や聖霊の助けによって番人の優先順位を果たすことになり、その番人は教会を守り、その番人は家庭を守り、その番人は私たち自身を守る、そういう正しい番人になったということです。まさにこれが私たちの姿であることを願います。
今、言葉の結論を出しますが、私たちは今、説教の後に歌う賛美が「ここで全てが終わったら、主の前に出て、より真実な礼拝を捧げる」と言っていますが、その礼拝というのは私たちの賛美と今の祝福が終わった礼拝が終わったわけではありません。今、皆さんが世に出て生きながら、働きながら、休みながら、愛しながら、今からどのようにして、より正しい礼拝を捧げるかということが、正しい番人であるということです。まさにそのような礼拝者になりたいのです。礼拝が優先の人、主の体である教会を献身し、忠誠の優先の人、敬虔で神を畏れることが優先の聖徒、そしてそれを正しく果たすために祈り、私が変わる祈り、私が変わる祈り。だからその祈りを通して愛を体験し、聖霊の印を受け、聖霊の力で今や生きながら、エルサレムの城を見、教会を見、新しいビジョンを夢見て、神と共に夢を見て、そうして正しい番人の役割を果たしながら生きる私たち全員になることを主の名によって祝福します。祈ります。
天の父なる神様、今日の言葉を通して、あなたがまさに神の国を守る教会を守る家庭を守る私自身を守る番人であると教えてくださり、主に感謝します。今、正しい番人になりたいです。礼拝が優先の生活を送り、礼拝を通して神の臨在を通して神と常に共に歩む、一人だけの番人ではなく、神が番人になってくださる、そういう正しい番人になれるように導いてください。敬虔にさせてくださり、神を畏れるようにしてください。そのためにサタンが隙間に入らないようにしてください。献身が優先になるようにし、忠誠が優先の生活を送るようにしてください。しかし私たちは不足しています。聖霊様、印を押してください。助けてください。それを実現するために、私たちが変わるために祈る私たちになれるようにしてください。父よ、私たちの祈りが変わるようにしてください。祈りを通して私を見させてくださり、悔い改めさせてくださり、変わるようにしてください。そして正しい番人になって、神の国を見て夢見てビジョンを持ち、主の御心を共に成し遂げる、そういう忠実な番人になれるようにしてください。今、ここだけの礼拝ではなく、世に出て正しい礼拝を捧げる私たち全員になるようにしてください。イエス様の名前で祈ります。アーメン。